聖光寺内の石碑


聖光寺 御開山(初代)悦堂常喜禅師

       六百回大遠忌奉修記念    

平成十七年九月  二十九世  大覚哲彦代


梅園介庵は、広島藩の学者明治前期の教育学者。名は昭郷。字は造甫。

廃藩後、修道学校の教授をしましたが、旧藩士の道徳の退廃を憂い教育に専念し、1885年鹿島本町に漢学学校「麗沢学校」を開講したようです。


高間省三18481868幕末の武士。

広島護国神社の筆頭祭神となる

嘉永(かえい)元年生まれ。高間寛八の子。安芸(あき)広島藩士。植田兼山,のち阪谷朗廬(ろうろ)にまなぶ。砲術にすぐれ,戊辰(ぼしん)戦争では藩の神機隊砲隊長として各地を転戦,慶応481日陸奥(むつ)浪江駅(福島県)の戦いで戦死した。21歳。名は正忠。

 

明治3年の建立で、恩師・坂谷朗廬の撰文である(漢文)。

 高間省三は、この日(慶応481日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣一番乗り)。そして次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた


木原松桂

吉田松陰と木原松桂
東広島市高屋町に吉田松陰が尊敬する、木原松桂という人がいました。
木原松桂が書いた「三余読書」「七生滅職」の掛け軸を、座右の銘として吉田松陰は幽囚室に掲げていました。
木原松桂は40年かかって生き別れた母の墓をみつけ厚く葬ったという人物です。


貞国の「辞世の歌」

栗本軒貞國と称し、江戸後期に活躍した狂歌の師匠。門人360人によって瑞川寺(現聖光寺)に歌碑が建立された。「花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを」行年八十八翁 天保四癸巳年二月二十三日没